覚書「論理的な議論の構築方法について」 (1993 年 4 月)


 公開しようかどうしようか、少し迷っていたのですが、もう1つ、古い document を公開することにしました。
 この document も「generalization を目指して」と同じく留学直前に書かれたもので、教育的目的を持っていたというよりは、むしろ、自分自身、方法論に不安を持っている中で、とりあえず確実と思われることを書き留めておこうとしたものです。初期のバージョンに対して、当時、京都外国語大学の学生だった高井岩生くんがいろいろ質問を投げかけてくれて現在のバージョンに至ったのを覚えています。
 基本的な方向性としては、現在も大きくは変わっていませんが、公開を躊躇していた一番の理由は、section 2 の「推論の方法」の説明がかなり偏っていて不十分だからでした。この節では、数学か何かの参考書を見ながら一覧を書いたつもりだったのですが、いざ実践してみようとすると、ここには書かれていないパターンが重要になることがしばしばでした。特に、「〜という可能性がある」「〜でなければならない」などの modality が入った形での推論のパターンがなければ、実際的ではないなあと感じさせられました。また、それぞれの節の中で用いられている「例」が少し安易すぎて、あまり役に立っていないということも、気になっていました。
 このようにいろいろ不満な点はありますが、思いきって公開してみた方が改訂のきっかけになるかもしれないと思い、フォーマット以外は当時の内容のままで連載してみることにします。

 質問/コメント/意見/感想のある方はこちらのフォームからどうぞ。個別にはお返事できないかもしれませんが、なるべく、このページ上で返答するようにいたします。

連載第1回
 1. ここで目指していること
連載第2回
 2. 「論理的」とは?
  2.1. 命題
  2.2. 推論の方法
連載第3回
 3. 論理を使って考えを整理する
  3.1. 言語事実を命題でおきかえる
  3.2. 議論を作っていく
  3.3. 議論を命題でおきかえる
  3.4. まとめて書いてみる
連載第4回
 4. 結論を真実に近づけていくために
  4.1. 真であると仮定しなければならない前提をへらしていく
  4.2. チェックポイント
連載第5回
 5. 論理的であることと説得的であること


「論理的な議論の構築方法について」
最終回
5. 論理的であることと説得的であること

 上の説明をふまえて、もう一度、「論理的」であるということと「説得的」であるということの違いを示しておく。
 自分の思いつきをありのまま記述しようとする場合、次のように「体験談」のパターンになってしまうことが多い。

(34) 議論のパタ−ンJ:
  こういう現象/問題点がある。
  まず、分析Aについて考えてみる。
    分析Aには…という悪い点がある。
  そこで分析Bを考えてみる。
    今度は…という悪い点がでてくる。
  では分析Cについて考えてみよう。
    分析Cには分析A・Bのような悪い点がない。
  したがって、分析Cがよい。

自分がこのような体験をしたということは真であったとしても、これでは論理的な構築とはいえない。「そこで」とか「では」というような関係は (6) の中にない関係だからである。
 J.をK.のようにすると、その意味で論理的な構築となる。

(35) 議論のパタ−ンK:
  こういう現象/問題点がある。
  これに対して3つの分析案A・B・Cがある。
  この中でCがもっともよいことを示す。
    分析Aには…という悪い点がある。
    分析Bには…という悪い点がある。
    分析Cには分析A・Bのような悪い点がない。
  したがって、分析Cがよい。

この議論は、次のように論理的な表現で書き直せる。

(36) 議論の流れ:
 a. A or B or C
 b. not A
 c. not B
 d. Therefore, C

これは一見、正しい消去法のように見えるが、実は、K.の議論には致命的な欠陥がある。(36)dの結論が成立するためには、(36)a,b,c が真であることが前提として必要である。ところが、(36)b,c はデータによって示されているとしても、(36)aについては「3つの分析案A・B・Cがある」というだけで仮定すらされていない。そして、その3つの分析案のどれかでなければならないということはないのであるから、(36)dの結論は導かれない。つまり、次のような疑問が出てきても却下することができないのである。

(37)  A・B・C ではなく C・D・E で比べたら C がもっともよいことにはならないのではないか?

「Cがよい」という結論は(37)のような問題が出されるたびに見直されなくてはならないことになってしまう。1つの現象に対する分析の数は無限にありうるので、これでは永遠に結論が出ない。
 したがって、K.の議論を論理的に成立させるためには、次のどちらかの方法がとられなければならない。

(38) a. 「[A or B or C]が真であることを仮定する」と宣言する。
   b. (36)aを、真であることがはっきりしている命題に置きかえる。

 注目してほしいのは、これと同じ問題点がJ.の議論にもふくまれているということである。ところが、J.の場合、「体験談」の形をとっているため、このような基本的な欠点もかくしてしまいやすい。一般に「体験談」は、その苦労の量が感覚にうったえるため、論理性以外のところで説得力をもちやすい。したがって、うまく読者を引きつけることができれば、自分の思うように擬似体験をさせ、「なるほど!」と感動させることができる。しかし、「体験談」は、このように感覚的に説得力をもっているからこそ、自分もそれにだまされてしまいやすい。感覚にうったえてしまっては、論理的な欠陥を見つけることができなくなるので、この手法を用いるのは、論理的な構築ができてからの方がのぞましいのである。
 また、体験談のパターンは下手に使うと読者をイライラさせることにもなるので、注意が必要である。読者がそのテーマについて自分と同じぐらい情熱をもっているとはかぎらない。読者としては、破棄される分析に対する接し方と結論となる分析に対する接し方で異なっていても自然であるが、このパターンの議論では、その使い分けを許してもらえないため、結論となる分析にいたるまでにエネルギーを消耗してしまい、いやになってしまいやすい。どのような場合に体験談のパターンが効果的かということを明らかにするためには、十分に「読者を知る」ことが必要になるのだろうが、現在の段階ではそれ以上述べることができない。
 さて、(38)a のような改良の仕方は簡単であるが、前提が1つ増えてしまうので、その意味で、あまり望ましくない。では、(38)b のような改良の仕方をするためには、どのようにすればよいだろうか。たとえば、次のようにすることによって、この議論は成立する。

L.こういう現象/問題点がある。
  これに対する分析のタイプとして、A・B・Cの3つがありうる。
  この中でCがもっともよいことを示す。
    分析タイプAには…という悪い点がある。
    分析タイプBには…という悪い点がある。
    分析タイプCにはA・Bのような悪い点がない。
  したがって、Cのタイプの分析がよい。

L.の議論も(36)のように表せるという点ではK.の議論と同じであるが、次の2点において異なっている。

(39) a. (36)aの前提が真であるという立場が明示されている。
   b. A・B・Cによって、具体的な分析案ではなく、いくつかの分析が共通してもっている特性の束を指している。

結果的に、結論が具体的な分析案から、分析のタイプへと変わったが、それは現在の段階で論理的にはそれしか導くことができないということがわかったからである。一見、結論が弱くなったように見えるかもしれないが、(38)a のような根拠のない前提を増やして強い結論を導くよりは、これは着実な一歩となる。場当たり的に分析の妥当性を調べるのではなく、順々に範囲をせばめていく方法だからである。

 確かに論文を書くことは難しい。よく、完全な論文の書き方はないと言われる。しかし、それは、自分の思いをすべて論文の中に表し、自分がそれを信じている程度にすべての読者に信じてもらうような書き方を指していることが多い。人が信じるかどうかは論理的に決定されることではないので、これには特効薬はないと思う。しかし、自分の考えていることを「完全に」客観的に見ることは可能なはずである。その結果、自分が予想もしていなかったものが出てくるとしても、それが次の思索のきっかけとなる。
 このように改良を重ねることによって目標に近づいていく方法は、ある意味では理論言語学の発展の姿そのものでもある。理論の枠組みとは、共有された前提の束にほかならない。言語学者は、理論の中ででてきた結論と自分がとらえている現実の姿との距離を見つめつつ、理論がもつ前提が適切かどうかを常に自問する。今まで仮定してきた前提をあらためて問題とすることもあるし、考察の末にまったく別の前提にとりかえることもある。ここでの前提とは理論の枠組みそのものであるから、前提が変わるということは理論が変貌するということになる。生成文法は様々に姿を変えてきたが、でたらめな変貌をしているわけではない。その変貌の幅は着実にせまくなってきている。論理的な議論を積み重ねていけば、「少なくともこうではない」という部分がだんだん大きくなってくるからである。生成文法はいろいろな意味で伝統的な言語理論とは異なっているが、このように自らの姿を変えることによって真実に近づいていこうとするところが最も大きく異なる点であるように思う。