就任講義 (2002)

 2002.5.22 に行われた九州大学文学部の就任講義の内容を、5回前後の予定で、ここに連載することにしました。タイトルは「いかにして理論言語学は経験科学たりえるか」というものです。特に前半は一部『日本語学』増刊号に載せた論文と重なる部分もありますが、この「いかにして理論言語学は経験科学たりえるか」は具体的な分析よりも方法論に重点を置いたものです。

 質問/コメント/意見/感想のある方はこちらのフォームからどうぞ。個別にはお返事できないかもしれませんが、なるべく、このページ上で返答するようにいたします。質疑応答は本文の下にあります。

連載第1回
 この就任講義について
 1. 何をことばの研究の目的とするのか
 2. 生成文法の考え方

 −−質疑応答
連載第2回
 3. 文法というメカニズムの存在の可能性について
  3.1. 両眼視差とステレオグラム

連載第3回
  3.2. 文法に関する仮説の検証方法の特異な点
連載第4回
 4. 文法というメカニズムの存在の証明を目指して
  4.1. 一致現象
  4.2. ことばとことばの関係--連繋
  4.3. 連動読み

連載第5回
  4.4. 説明対象の限定の仕方はいかにあるべきか
 5. 終わりに


「いかにして理論言語学は経験科学たりえるか」
第1回
1. 何をことばの研究の目的とするのか
 ことばの研究というものは、一般に(1)のような興味から始まることが多いと思う。

(1)  どういう文がどういう意味を伝えているのか。どういう意味がどういう文で表現されるのか。

しかし、文と意味の関係というものは非常に複雑である。同じことばでも、言った人と受け取った人で解釈が異なるのは日常茶飯事だし、長々とことばで何かを説明するよりも一瞬の表情の方がよっぽど説得的に何かを伝えることもある。

(2) a. 誤解:「伝えようとしていること」と「読み取られたこと」が違う場合がある
  b. 行間を読む:ことばで表している以上のことが伝わることもある
  c. 以心伝心:ことばを使わずに気持ちが伝わることもある

したがって、(1)のような目標を掲げた場合、大きな問題となるのは、「ことば」を入力として「意味」を出力とする場合にせよ、何らかの「意味」を入力として「ことば」を出力とする場合にせよ、その入力と出力の組み合わせが一定でないということにある。
 (1)のような問題提起で想定されているのは、「ことばそのものが表す意味」であって、意図や気持ちではないと言うかもしれない。しかし、ことばがいかに伝達という機能を果たしているかということを研究対象にするならば、「伝えられるべき(理解された)意図・気持ち」を無視することはできないはずだし、「ことばそのものが表す意味」と「伝えられるべき(理解された)意図・気持ち」とがどのように峻別されうるのかということも問題になる。
 このように、入力と出力の対応が一定でないということは、(1)のような目標を掲げる限り、(狭い意味での)「科学」的アプローチをとることはできないということになる。ここで、「科学」という言葉は、(3)のような意味で用いている。
(3) 我々をとりまく現実の中から入力値が出力結果を決定するようなメカニカルな側面を説明対象として切り取り、そのメカニズムに関する仮説を立て、仮説の予測する結果と実際の結果を比較することによって仮説を検証していく営みを(狭い意味での)「科学」と呼ぶ。
もちろん、(1)を目標として研究することを批判しているわけではない。単に、(1)の目標と(3)のアプローチは合わないと思うということである。
 では、ことばの研究を「科学」として行うことは不可能なのだろうか。伝達手段としてのことばとは別の側面に注目することによって「科学」として言語を研究する可能性があるということを主張したのがチョムスキーであった。


2. 生成文法の考え方
 チョムスキーの考え方は「生成文法」と呼ばれる。「文法」という名称のゆえに、具体的な文法規則の集積のように誤解されていることも多いようであるが、「生成文法」とは、むしろ、言語には「科学」的に追及できる側面がある、という言語観を指す語である。
 より具体的に言うと、生成文法では、人間の頭の中に、文法というメカニズムがあり、それがNumeration と呼ばれる(バラバラの)語の集合を入力として、文という構築物を出力として出すと考えている。

(4) 生成文法の文法像:
                         Numeration(≒単語の集合)
                               |
                 ┌─────────┼───────┐
                 │                  │              │
                 │   ┌─────┤       │ 文法
                 │   │     │       │
                 └───┼─────┼───────┘
                         ↓     ↓
                      PF表示         LF表示
LF表示は、意味の面から見た場合に語と語がどのように組み合わされて文という一つの構造物になっているかを示すものであり、PF表示は音の側面から見た文の構造を示すものである。LF表示とPF表示はそれぞれ別のものではあるが、私達が「文」と思っているものの二つの側面であり、この二つが揃ってはじめて「文」ということになる。
 文に構造があると言われて具体的なイメージがいだきにくい人も多いかもしれない。構造といっても、機械や建物とは違って、文の構造は目に見えないからである。しかし、例えば、会社という組織を考えてほしい。実際に目に見えるのは人間の集合でしかなくても、単に様々な人々が同じ場所で活動しているだけでは会社という組織にはならない。組織があるからこそ、全体としての機能をもつことができる。何か決まった役割をはたす部署がいくつかあり、その中にいろいろな役割のポストがあってはじめて組織になる。人はその「構造」の中で働いているので、同じ人であっても、ポストが違えば、果たすべき役割が違っている。このように、たとえ目に見えなくても構造というものが存在することはあり、私たちがその存在を感知することもできる。同じように、文の中の単語はそれぞれ役割をもっていて、その役割をはたしているからこそ文全体の意味にかかわってきている。文には構造があり、単語はその構造の中で働いて文の意味が出るのである。
 さて、文法というメカニズムから出てくる可能性のある文が「適格文」、それ以外のものが「非文」と呼ぶ。たとえば、標準的な英語の場合、(5)は適格文、つまり、そのメカニズムの出力の1つであるはずであろうが、(6)はそうではなく、いわば単なる単語の表出にすぎないと言ってもいいかもしれない。

(5)  My father and mother went to Alaska yesterday.
(6)  Father mother Alaska go yesterday.

単語を単に並べただけでも、ある種の伝達は可能であり、たとえば、(6)でも(5)と同じだけの情報量を伝える可能性はある。しかし、それにもかかわらず、英語話者は(5)が標準的な英語の「文法的な文」であるのに対して(6)はそうではないということが判断できる。生成文法が手がかりにしているのは、(5)と(6)の文法性をこのように区別できる能力である。
 伝達意図とことばの関係とは異なり、(4)の文法は、入力値が出力結果を決定するメカニズムである。したがって、どのように個々の単語が文というものに構築されていくかという分析を立て、その仮説の予測する結果と実際の文法性の判断を比較することによって仮説を検証していけば、まさに(3)の意味での「科学」の営みということになる。しかし、その理念が実際に実行されて成果があがっているのかというと、否定的な印象を持たれていることが多いのではないだろうか。生成文法が誕生してそろそろ半世紀になろうとしているのに、いまだに(7)のような意見/疑問があとをたたないということがそのことを物語っている。
(7) a. 文法を知らなくても、コミュニケーションはできる。文法などというメカニズムの仮定は不必要なのではないか。
b. 生成文法の用いている例文は、極めて不自然な文であることが多く、ああいうものを材料にして理論を作っても意味があるようには思えない。
c. 生成文法の論文で用いられている例文の判断が筆者と一致したためしがない。回りの人に聞いてみても、みんな判断が様々である。筆者の都合のいいようにでっちあげているのではないか。
d. そもそも文法の存在を証明することは可能なのか。存在しない可能性のあるものを仮定して研究を進めることは無意味ではないのか。
e. 生成文法は、言語全体を見ようとしていない。都合のいい現象だけを選んで「美しい理論」を作ることを目指しているように思われる。説明できないことを次々に対象外に追いやって、「美しい理論」を作っても意味がないのではないか。
f. 生成文法の研究に対して、その分析で説明できない例を指摘すると、「それは今、問題にしていない」だとか「反例があっても理論そのものが否定されたことにはならない」などとはぐらかされてしまい、建設的な議論にならない。
以下、この(7)にあげた点を1つ1つ取り上げていくが、これらの意見/疑問は、生成文法以外の分野の研究者からだけでなく、実際に生成文法の研究をしている学生から発せられることもある。それだけ根深い問題だということである。どの問題も短時間で、また具体例なしに語り尽くせることではなく、また私自身、理解を進めている途上ではあるが、現時点でできる範囲で関連する問題について述べてみたい。
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Q: (4)では、単語の集合が文法の入力であると書かれていますが、つまり、文法とは、日本語の単語を全部入れれば、日本語の文がどんどん出てくるメカニズムだと考えられているということでいいんですよね?
上山: これは、私の書き方が舌足らずでした。そういう意図で書いたものではありません。訂正します。

 単語についての知識は、文法とは別に、頭の中にたくわえられていると考えられています。(4)で文法の入力として書いた「単語の集合」は、その人が知っているすべての単語の集合という意味ではなく、その人がたくわえている単語の中から(適当に、もしくは、文法とは別の仕組みによって)選ばれた単語の集合、という意味でした。文法は、その選ばれた単語をすべて使いきって1つの文を構築することを目指すメカニズムです。

Q: 生成文法が目指しているのは、すべての言語の共通の基盤となる普遍文法の解明であると理解している。しかし、第2節の(4)では、文法とは、単語を入力して文を得る仕組みであると書かれている。ということは、ここでは普遍文法ではなく、日本語の文法の話をしているということだろうか。
上山: 確かに、(4)は具体的に文を生成するメカニズムですから、日本語なら日本語の、英語なら英語の文法と言ってもいいかもしれません。ただ、問題は、それと「普遍文法」とがどれだけ異なるのかということです。
 普遍文法というのは、すごく抽象的なものであって具体的な個別文法とは全く異なっているということが強調されたこともありました。1980年代から90年代にかけては、よくパラメータというキーワードが使われ、普遍文法は各パラメータの値が設定されて初めてメカニズムとして始動するというイメージで語られていました。最近でも、パラメータという考えがまったくなくなったわけではありませんが、それぞれの個別言語の違いの多くの部分は、その言語の単語の特性に帰することができるという方向にシフトしてきている印象を持っています。つまり、文法というシステムそのものには(ほとんど)言語による違いがないが、材料として使われる単語の特性/要求が異なるために、結果としてでてくる文の構成も変わってくるという考え方です。
 私もそのようなイメージを持っているために、(4) の文法像で日本語の文法の話をしたり、普遍文法の話をしたりしてしまいました。何か注意書きをつけておいた方が適切でしたね。