連載第1回
 この就任講義について
 1. 何をことばの研究の目的とするのか
 2. 生成文法の考え方

 −−質疑応答
連載第2回
 3. 文法というメカニズムの存在の可能性について
  3.1. 両眼視差とステレオグラム

連載第3回
  3.2. 文法に関する仮説の検証方法の特異な点
連載第4回
 4. 文法というメカニズムの存在の証明を目指して
  4.1. 一致現象
  4.2. ことばとことばの関係--連繋
  4.3. 連動読み

連載第5回
  4.4. 説明対象の限定の仕方はいかにあるべきか
 5. 終わりに


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「いかにして理論言語学は経験科学たりえるか」
第2回
3. 文法というメカニズムの存在の可能性について

3.1. 両眼視差とステレオグラム

 まず、(7a)からはじめる。

(7) a. 文法を知らなくても、コミュニケーションはできる。文法などというメカニズムの仮定は不必要なのではないか。

生成文法の立場から言えば、(5),(6)で説明したように、ある文が文法的であるかどうかということと、その文が伝達能力を持っているかどうかということとは、本質的に別の概念である。しかし、「通じるかどうか」という区別とは異なり、文法的かどうかという概念は、普段の生活の中では特に必要とされないことが多いため、(5),(6)のような明らかな例を除いては、文法性という感覚を私達が感じているのかどうかすら、あいまいであることがよくある。だからこそ、(7a)のような疑問もでてくるのであろうが、日常生活の中で、その感覚を意識していないからといって、文法というメカニズムが存在しないとは限らない。
 ここで、(心理学は専門外なので知識が偏っていたり不正確であったりするかもしれないが)視覚を例にとりたい。我々は普段の生活の中で、何が何の向こうにあるかということはたいてい一目見て判断することができるが、その判断には様々な要因が関わっていることが考えられる。物体Aの形がBによってさえぎられているならば、Bの方がAよりも手前にあるだろうし、大きさの大小やどれだけくっきり見えるか、というようなことも影響しているだろう。しかし、それらの要因以外に、人間は、ものの距離を測る純粋な計算機構も持っていることが知られている。それが両眼視差と呼ばれるもので、右の眼に映った画像と左の眼に映った画像のわずかな違いをもとにして、距離の違いを知覚しているという。しかし、そのような計算が可能なはずだということは理屈としては知られていても、人間にそのような独立した計算機構が備わっているということが初めから受け入れられていたわけではないらしい。日常生活においては、両眼視差以外の情報が豊富にあるため、わざわざ純粋な計算機構を仮定しなくても、我々の知覚の説明がつくように見えたからである。
 そこで、そのような計算機構が存在しているということを示すために工夫されたのが、ステレオグラムであった。ステレオグラムとは、普通に左右の眼の焦点距離を合わせて見ると何も意味のない模様であっても、ある特定の方法で焦点をずらしているうちに、急にあたかもそこに立体的な出現したかのごとく見える図のことである。私の理解している範囲で仕組みを説明すると、(8)のように同じ図形がいくつか並んでいるとした場合、通常は(9)のように1つの対象を両目で見て距離感を出すのに対して、ステレオグラムでの立体視が成功している時には、例えば(10)のように、実際には左右の目が異なる対象を見ているにもかかわらず、1つの対象を見ていると錯覚しており、そのために、現実とは異なる距離感が感じられてしまう。

(8)    ○  ○  ○  ○  ○  ○ 
    A  B  C  D  E  F 

(9) 通常の場合:
    左目に映ったAの像+右目に映ったAの像 → 左から1番目の○の距離感
    左目に映ったBの像+右目に映ったBの像 → 左から2番目の○の距離感
    左目に映ったCの像+右目に映ったCの像 → 左から3番目の○の距離感
       . . .

(10) ステレオグラムで立体視している場合の一例:
    左目に映ったAの像+右目に映ったBの像 → 左から1番目の○の距離感
    左目に映ったBの像+右目に映ったCの像 → 左から2番目の○の距離感
    左目に映ったCの像+右目に映ったDの像 → 左から3番目の○の距離感
       . . .

私たちがよく見るステレオグラムは、(10)の方法で距離感が感じられた場合に何らかの立体像が浮かび上がるように、もとの図形同士の間隔をたくみに調整して配列されたものなのである。ここで重要なのは、両眼視差から距離を出すメカニズムが存在しなければ、(10)のような距離感の計算も起こるはずがないということであり、また、そのメカニズムについての仮説が正しいからこそ、ステレオグラムをデザインした人の意図した通りの立体像が我々に見えるということである。ステレオグラムの場合、浮かび上がる立体像がどのような形をしているのかについては、両眼視差以外の情報はまったくない。したがって、あのような図形が見えるように感じるという事実そのものが、両眼視差から距離を計算するメカニズムの存在を裏付けていることになる。
 普段、私たちが文を聞いて「意味がわかる」と感じる場合、文法の出力であるLF表示にもとづいて理解している側面と、文法以外の様々な知識にもとづいて理解している側面とが混ざってしまっている。文法に関しても、ステレオグラムのように、メカニズムの出力結果を単独で体感できる方策があればいいのだが、残念ながら、少なくとも現在のところはそのような方法は存在していない。しかし、日常生活の中でその効果が実感できない場合でも、人間には純粋な計算機構が備わっている可能性があるということが、このことからわかるであろう。
 (7b)の疑問点もこのことと関連がある。

(7) b. 生成文法の用いている例文は、極めて不自然な文であることが多く、ああいうものを材料にして理論を作っても意味があるようには思えない。

ステレオグラムにおける立体視も日常生活から見れば極めて「不自然」な見方には違いない。それでも、その「不自然な見方」をすることによって両眼視差にもとづく遠近感の計算結果を他のことにもとづく遠近感の判断と切り離して感じることが可能になるからこそ、その結果は無意味にならないのである。同様に、文法の研究においても、例が不自然であるという理由だけで結果が無意味だということにはならない。多少不自然な例文であっても、それによって文法による働きと他の要因による影響とが明確に切り離されるものならば、十分に意味のある試みということになるはずである[注1]

[注1] もちろん、だからといって、どんな不自然な例文を使ってもかまわないということにはならない。続く3.2節でその問題を論じる。
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