『統語意味論』 あとがき 

 思いをコトバにしようとするとき、客観的に正確な表現を目指すよりも、主観に寄り添った感覚的な表現を用いたほうがいいのではないかと思うことが時々ある。それが自分の中に現実感(リアリティ)を持って存在している思いであればあるほど、客観的に描写を試みて相手の頭の中に設計図を届けるよりも、むしろ主観的に相手の感覚に訴えて、対象物を「召喚」してもらったほうが、はるかに正確に、その思いを共有できるのではないかと思うからである。この本の執筆過程においても、その誘惑は何度となく訪れた。一見、本書は長い式や樹形図がたくさん含まれた「理系」の見た目をしているが、その背景にあるのは、「言語表現から意味が理解されるのは、なぜ?」「語彙と語彙の組み合わせ方によって、意味が変わるのはどうして?」という問いに対する自分の思いだからである。

 ただ、いくらその思いが自分の中で現実感(リアリティ)を持っていたとしても、その思いを召喚する「呪文」がなければ、相手に同じ思いを呼び起こしてもらえないということを、これまで幾度となく思い知らされてきた。本書で展開されている、さまざまな定義や規則は、いわば、その呪文の一部である。この呪文にそって進んで行くと、上の問いに対する私の「思い」がぼんやりとでも立ち上がってくるのではないかと期待している。それこそが私が本書で伝えたいと思っているものであり、ここで書かれている定義や規則そのものが重要なわけではない。よりよい「呪文」が見つかれば、すぐにでも取り替えていきたい。だからこそ、その呪文を覚えるための労力を少しでも減らすために、終.3節で紹介したように、web上にデモプログラムを準備した。本格的な実用のことを考えると、まだまだほど遠い段階であるが、本書の内容の理解の一助にはなると思う。

 本書のベースとなっているのは、2008〜2013年ごろに九州大学大学院の授業で行なってきた講義である。毎回、書き下ろした原稿をテキストとして、院生さんたちに内容を聞いてもらい、その反応を見ながら改訂を重ねてきた。当初は、「呪文」もここまで複雑ではなかったが、やはり、感覚に頼った説明だと共有がしにくく、その結果「明示できる部分は、すべて明示する」という現在の方針が生まれてきた。全員の名前を挙げることはできないが、この授業に参加してくれたすべての学生さんたちに大変感謝し、かつ、申し訳なく思っている。毎年、春には「去年の反省を踏まえて、このように変えました」と言って、新しい「呪文」を導入したかと思うと、秋には「さらに、変更が必要だということがわかったので」と、再度「呪文」を変更するということの繰り返しで、院生さんたちを大いに振り回してしまったことと思う。

 また、2010年ごろからは、夏休みや春休みを中心に各地の大学に出向き、少人数のかたがたに聴き手になってもらい、本書の考え方を語らせてもらった。本書の注の中に登場するかたがたはもちろん、それ以外のかたがたにも、さまざまな質問やコメントをいただき、多様な角度から自分の思いを見つめ直すきっかけとなった。貴重な時間をさいて、生煮えの状態の話に付き合ってもらって感謝に堪えない。

 本書がこのような形で出版されることになったのは、名古屋大学出版会の橘宗吾氏のおかげである。自分の思いを形にしたいという気持ちはあったものの、なかなか理解してもらえないことが多く、出版する意義がないのではないかと弱気になっている私の背中を力強く押してくれた。また、序章でも述べたように、コトバに対する私の思いは、基本的には生成文法理論からもらったものだと認識しているので、「統語意味論」という新しい名前を付けることについても躊躇があったが、その踏ん切りをつけさせてくれたのも橘氏の励ましによる。同じく名古屋大学出版会の神舘健司氏にも、編集段階で大変お世話になった。執筆途中に「呪文」をところどころ変更したことがあったため、原稿の中に新旧のバージョンが混在してしまっていたのを丁寧に洗い出し、不明瞭な書き方の箇所を多数指摘してもらった。もちろん、まだ不備が残っている可能性はあり、それは全面的に著者の責任であるが、お二人の尽力なしには、ここまで来られなかったことは確実である。心から感謝している。


 終章でも述べたように、理論というものは、常に姿を変えていくものではあるが、前進していくためには、知見を積み重ねていける部分がなければならないと思う。本書で示した具体的な分析の寿命は長くないかもしれないが、今後の蓄積のための土台になってくれることを祈ってやまない。


2015年9月

著者