『生成文法の考え方』 プロローグ

0.1. 生成文法の変遷

 一般に「生成文法」(generative grammar)と呼ばれている言語学のアプローチは、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky, 1928〜 )が1955年にペンシルヴェニア大学に提出した博士論文で発表され、1957年にその一部がSyntactic Structuresとして出版されて、世に広まった。生成文法は近代言語学の発展に大きな影響を及ぼしてきたが、今までに何度か、仮説の根本的な部分の建て直しを経験していて、今なおその発展途上にある。大まかには、ほぼ10年ごとに大きな変革があり、それぞれの時代の理論は次のような名称で呼ばれていることが多い。(括弧内は代表的な著作。)

1950年代から1960年代:
標準理論 (Chomsky (1957, Chomsky (1965, Chomsky (1975a)))
1970年代:
拡大標準理論 (Chomsky (1970b, Chomsky (1973)))
1980年代:
GB理論 (Chomsky (1981, Chomsky (1986b)))
1990年代から2000年代:
ミニマリスト・プログラム (Chomsky (1995, Chomsky (2000a, Chomsky (2000b)))

 「標準理論」が追求されていた1960年代は、英語のいろいろな現象の観察と記述を拡大・充実させた時代であった。しかし、その結果、文法規則が繁雑になりすぎた側面があったため、70年代の「拡大標準理論」では、60年代の記述の成果をもう少しすっきりとらえるための理論化ということが1つの焦点となった。拡大標準理論は試行錯誤の趣きが強いが、対立する理論についての議論の中で、さらにさまざまな観察が集積された。これらをふまえたうえで理論の枠組みがいったん安定するのは80年代に入ってからである。80年代になると、英語以外の言語に関する多種多様な記述の成果も受け入れられる「GB理論」が広く追求され、他の言語の観察が本格的に始まった。1990年代後半から2000年代は、よく「ミニマリスト」の時代と称されるが、GB理論の時代の成果に基づいて理論的な整備を進め、さらに文法を簡素化しようとしている時代と言うことができるだろう。

0.2. この本の着眼点と構成

 本書の目的は、半世紀にわたる生成文法の変遷を現在の視点から見つめ直し、何がどういう理由でどのように変わってきて、何が変わらなかったかということを、なるべく具体的な例をまじえて示すことである。特に、生成文法が少なくとも表面的には急激なスピードで著しい変化をとげてきている中で、その根底に一貫して流れる考え方や研究指針に焦点をあてたい。

 生成文法の理論の変遷には、生成文法特有の言語(そして人間)のとらえかたに由来する文法観が深く関係している。ここで言う文法観とは、以下の章で具体的に取り上げるように、たとえば、文法とは脳内のメカニズムである、文には体系的な内部構造がある、1つの構造から別の構造が派生され、それぞれが音や意味と結びついている、などの考え方のことである。これらに注目し、過去のどういう仮定や分析がどういう形で現在に引き継がれているか、もしくは変容してきているかということをなるべく具体的に示していきたいと思う。

 理論の変遷と言っても、単にそれぞれの枠組みを概説するのではなく、各章ごとに下に示したような具体的な着眼点をもうけ、それについて(1)でまとめた理論の流れを追いつつ、生成文法の考え方とそれがどのような形で表現されたか、その変遷を見ていきたい。

  • 1章 文法
  • 2章 構造
  • 3章 音と意味
  • 4章 主語
  • 5章 生成文法の説明の対象と目標

 まず第1章では、生成文法のアプローチが「文法」という概念をどのようにとらえているかを、言語の習得の問題と関連づけることによって明確にしていく。初期の生成文法の統語規則や、第2章以降の議論や分析で必要になる基本的な仮説のいくつかも、簡単に紹介する。

 第2章では、文の組み立て方について考える。文法が文の構造をどのように形成するかという、いわゆる「句構造」の理論はさまざまな移り変わりを見せたが、結果的には1960年代と1990年代以降では正反対とも言える考え方をとっており、何故このような変遷が起こったのか、また、変わらないものは何か、という点に着目する。

 第3章では、文法が出力として提供するものにはどういう情報が含まれているかという点に注目する。これは、音と意味の関連をどのように位置づけるかという問題に結びつくものであり、この問題をめぐって、文法のモデルが何度も改訂されてきたいきさつがある。そのようなモデルの変遷も簡単に紹介する。

 第4章では、いわゆる「主語」という概念に対して生成文法がどのように取り組んできたかということを中心にすえて、標準理論、拡大標準理論、GB理論、ミニマリスト・プログラムの違いについて述べていく。

 第5章では、これまでの説明をふまえて、研究者として生成文法という営みに参加していくにあたって留意すべきであると思われるさまざまな要素を指摘し、この本全体の締めくくりとする。

 すべての章において、単なる理論の紹介ではなく、私たちの視点をもちこんだ分析を行なっているが、総じて、第1、2章は生成文法研究の基礎となる概念の入門書的な紹介が多くなった。第5章には特に若い研究者のみなさんに目を通してもらいたいという著者の願いが込められている。全般的に、生成文法に初めてふれる人を意識してはいるが、ある程度「生成文法」に精通した人にも参考にしてもらえるように、今まで書かれたもの、あるいは研究分野の中で必ずしもはっきりと認識されていなかった、生成文法の大切な側面を浮き彫りにする事を心がけた。「そう言われてみれば確かにそうだが、今までそのような見方をしたことはなかった。これで、今までもうひとつはっきりしなかった生成文法のアプローチの動機が見えた」と読者が感じてくれるようであれば、私たちの目標は達成されたことになる。

 チョムスキーという1人の天才に引っ張られて発展してきた感のある生成文法は、良くも悪くもチョムスキーの影響力が非常に強い。チョムスキーがある程度神格化されたおかげで、生成文法が急激に発展してきたのは事実であるが、しかし、その反面、彼の分析や仮説があまりにも急速に研究者たちの間に浸透しすぎ、さまざまな議論を経た健全な淘汰のプロセスが省略されてしまう傾向が存在したことも否めない。その意味でも、今、生成文法の半世紀の歴史の中で「何がどういう理由でどのように変わってきて、何が変わらなかったか」ということを見つめ直してみるのは有益なことであろう。

 ただし、生成文法の考え方そのものを明確化することを目的としていて、生成文法の変遷、あるいは現在の枠組みそのものを紹介しようとはしていないので、扱う対象も網羅的ではなく、また、取り上げられたトピックについても細部に至るまで解説しようという意図は持っていない。また、ときには、過去の分析に現在の視点や用語をあえて(史実的には正確ではないが)持ち込んでいる場合もある。さらに、生成文法と言っても、チョムスキー自身のアプローチとはさまざまな点で袖を分かつアプローチもたくさんあるが、この本ではそれらについてはほとんど言及していない。詳しい紹介やテクニカルな部分の解説は、それぞれの入門書や専門書に譲りたい。(なお、本書執筆にあたりご協力いただいた方々への謝辞は、本シリーズの編集方針により割愛させていただく。)